小学校の設立方式には各府県によって次の3つの基本的な類型があったとされる。
第1の型は、家塾を基礎にしないもの
第2の型は、家塾を基礎にしたもの
第3の型は、なかば家塾を基礎としたもの
この中で茨城県は、第2の型、つまり従来の寺子屋をそのまま小学校とした典型的な例である。すなわち、従来の家塾にやや修正をを加えて、そのまま小学校tpし、だんだん教則を改正して、学制による小学校の体裁にもっていこうとする型である。
更に学制では、「小学教員ハ男女ヲ論セス年齢20歳以上ニシテ師範学校免許状或ハ中学免許状ヲ得シモノニ非サレバ其任ニ当ルヲ許サス」とされているが、これはただの将来を目的にしたものに過ぎず、当面どういう人材を教育に当てるかは少しも指示していない。
そこで当面教員にあてられるべき人材源としては、まず、藩学や郷学の後身である県学の教師群、家禄で生きている士族、神官や僧侶、農商ながら学問の素養のある者、そして何と言っても、従来の家塾や寺子屋の師匠群があった。
各府県とも、とりあえず相当程度、家塾の教師を教員に当てたが、特に家塾保護の方式を取った茨城県では、家塾への信頼感が背景にあった。
このような中で、明治6年5月に、止幾も自宅を教場として小学校教育を始めた。この時、止幾は68歳であった。
この教場は、錫高野地区の、学制に基づく最初の小学校で、止幾自身も茨城県における最初の女性教師とされている。止幾は、1年間主に漢学を教えたと言われている。
そして、明治7年5月に新校舎が設立されると同時に、臨時的な採用であり、高齢でもあったため教職を辞した。
しかし、その後も教えを請う者が少なくなかった為、再び実家の寺子屋の経営に当たり、明治23年85歳の高齢で亡くなるまで、近隣の青少年を教え続けた。