一方、黒澤家においては、祖父吉荘は既に亡く、止幾は、母総子と二人の娘たちの家計を助けるため、櫛(くし)や簪(かんざし)を江戸で仕入れ、行商によって各地を巡っていた。その行商範囲は、上州草津の湯元まで行っていることがわかっている。
女性1人で、大変危険な行商の旅であったと察するが、止幾はその間、地方の文化人と交流を深め、俳諧・狂歌・漢詩・和歌などを学んできた。更に行商の先々で各地の志士達と交流をもっていたとも推察できる。
天保10年(1839年)には、祖父吉荘死後空席となっており、那珂郡小野の南窓院が兼務していた宝寿院の院務を司るため、母総子の婿として、その南窓院から助信法印を迎える。止幾は、この義父となった助信法印にも、和漢の書を学んだ。
この助信法印は、詩歌・俳諧のみならず、浄瑠璃までも作る才能の持ち主であったという。また、天保14年には、水戸藩藩政改革における寺院破却に際し、率先して賛同した人物でもあった。、しかし彼は安政元年(1854年)病気のため実家の南窓院に戻り、翌年に亡くなった。止幾は、この義父助信法印に、文化的にも思想的にも大きな影響を受けたと思われる。