文政10年(1827年)に長女久子が、天保元年(1830年)に次女照子が誕生した。
しかし、夫彦蔵は放蕩者であった。いさめても聞く耳をもたない夫の非行を改めさせようと、ひたすら神に祈りつつ、苦渋と忍従に明け暮れた生活を送っていた。
この小島時代の止幾は専ら農業に励み、紅花の栽培などに従事していた。
そうして小島における8年間、止幾は、ひたすら貞節を尽くし家のため、夫のため、子供のために苦労を重ねた。しかし、その甲斐も無く、天保2年(1831年)に夫が死亡したので、やむを得ず、翌天保3年の秋、2人の子供を連れて錫高野の生家に戻った。