地域性 黒澤止幾(とき) 日本初の女性教師

地域性

止幾の生涯の殆どを過ごした錫高野村の地域性について話をしよう。
現在の錫高野は、城里町の西方の山間部に位置し、かつては錫鉱業で栄えた歴史がある。
 錫高野村における錫鉱業の始まりは、止幾の生きた時代を200年もさかのぼる。発見者は、明の誂寛なる人物で、彼が村民に採掘や精錬の方法を伝授したとされる。
佐竹時代には、郡代人見主膳なる人物が錫役を務め、錫の採掘が盛んに行われた。この時、山神祠が創立され、山内安全・鉱業繁栄を祈って大旗が立てられ祭事が行われた。
 更に、水戸藩初代藩主徳川頼房の時代にも、錫山奉行が置かれ、百姓らの農閑余業として採掘・精錬が行われ、村内は大いに栄えた。
 二代藩主光圀の時代には、修験の大龍院大越慶山が別当職を申し付けられ、以後代々その祈願に携わってきた。この大龍院大越慶山は、後に宝寿院と改められる。つまり黒澤家の祖先である。
そして9代藩主斉昭の時代には、庄屋太兵衛ほか村役人の者に、錫役兼務が命じられ、農閑余業として採掘が益々盛んとなった。
 天保5年には、斉昭が自ら視察に訪れ、太古より錫の産地あることを以て、それまで高野村と呼ばれていた村に錫の字をつけ、錫高野村と称するように命じた。斉昭が自ら視察に訪れるほど、錫高野の地を大砲や小銃などの武器製造の地として重要視していたと考えられる。
 このように、幕末の錫高野は斉昭とも関係が深く、錫鉱業で栄えていた。その錫鉱業に黒澤家も「錫高野山神祠別当」という形で関わっていた。
前述した、天保5年の斉昭視察の時に止幾は、崇敬の念が形成されたとも考えられる。
また、黒澤家の修験道場にも、各地の修験者が出入りしていたと見られ、更に錫高野が水戸城から離れた農村部であるが故に、多くの志士らしき人物が立ち寄り、逗留していたことが、史料からわかる。
このように城下から離れていることが、かえって志士達の潜伏に適しており、隠れ家的地域として機能していたと考えられる。
posted by TOKI at 15:23 | Comment(0) | TrackBack(0) | 生い立ち
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