生い立ち 黒澤止幾(とき) 日本初の女性教師

生い立ち

黒澤止幾
名は、「とき」「登幾」「登幾子」「止幾」「止幾子」「時子」「と起子」など、さまざまな表記がある。別名、「李恭(りきょう)」。

文化3年(1806年)、常陸国水戸藩領茨城郡高野村(現在の、茨城県東茨城郡城里町錫高野)に、父将吉、母総子の長女として誕生した。
止幾の家は、代々宝寿院という修験道場(山を神として敬う古来日本の山岳信仰と神道、仏教、道教、陰陽道などが習合して確立した日本独特の宗教の道場)を運営し、その傍らで、寺子屋を開いていた。

父将吉は、修験者(山伏)で、水戸藩領の久慈郡小島村(現在の茨城県常陸太田市小島)の鴨志田家から婿養子に入ったが、止幾が2歳のとき離縁となり、黒澤家を去っていった。そのため、止幾は母総子と祖父吉荘に育てられることになる。
特に祖父吉荘から『大学』『実語経』『今川』などの教えを受けていた。

 ところで、黒澤家の家系は、藤原氏の流れを組む、二階堂遠江守為憲の11代の後胤、下総守頼綱の4代の孫、下総国相馬の城主黒沢玄蕃掾頼定の後裔である。藤原氏を勤王の家系としてとらえ、止幾自信が、その藤原氏の流れを引いていることを強く意識し、雪冤運動(徳川斉昭の無実を晴らす運動)を行う契機の一つになっていることが、後に朝廷に献上した長歌の中にうかがい知れる。

場所
posted by TOKI at 10:00 | Comment(1) | TrackBack(0) | 生い立ち
この記事へのコメント
こんばんは、始めまして!
私も常陸太田秋まつりに行ってきましたが、東京の渋谷から出展したそば屋には、気が付きませんでしたね!
Posted by たかさん at 2007年11月25日 22:20
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