※雪冤とは、無実の罪をすすぎ、潔白であることを明らかにすること。
安政5年(1858年)4月、彦根藩主井伊直弼が幕府大老に命ぜられ、停滞した幕政を一挙に挽回しようとして、天皇の許可を待たずに日米修好通商条約に調印した。これを知った徳川斉昭等は、不時登城し井伊直弼に対し無断調印したことを激しく面責した。
このため幕府は斉昭等に対し不時登城の罪により厳しい罰則を科した。「重謹慎」を命ぜられた斉昭のため、水戸藩士民は大挙して江戸に上り、斉昭の雪冤運動を行い水戸藩内は騒然となった。幕府は勤皇派に対する圧力を強め、多くの志士達が捕らえられ投獄さて、あるいは斬罪となり、その数は百名に達した。
これが「安政の大獄」と呼ばれる幕府の圧政である。
この風聞が次第に伝わり、勤王の志厚い止幾は、黙って見ていることが出来ず、烈公の無実を京都の朝廷に訴えようと決意した。
安政6年2月22日、止幾は母の許しを得て女性の身でただ一人故郷を後に、一路京都へと旅立ったのである。止幾が54歳のときだった。
止幾は東海道を行く考えであったが、通行人の激しい東海道は途中、取締りが非常に厳重であったので、笠間から下館を通り桐生を過ぎ、草津に到着した。3月2日のことだった。
それから、信州路より長野へ入り、松本、塩尻を経て関ヶ原大津から3月25日に京都へ入った。故郷を出て24日目であった。
止幾は、水戸の旅人が宿泊するという京都の扇屋に宿をとり、朝廷に差し出す献上の長歌の清書をして、座田右兵衛維貞に献上の長歌を託した。
京都における幕府の警戒は一層厳重で、関東から女の密使が京に潜入したという噂はたちまち京都に広まった。
大阪に向かった止幾は、そこで役人に捕らえられ、再び京都へ護送され厳しい取調べを受けた。2ケ月近い入牢の末、5月15日、政治犯として重罪人扱いとなった止幾は、唐丸籠に乗せられ江戸へと護送された。途中の宿場宿場では、女性志士を見ようとする見物者が大勢詰め掛けた。そして、江戸伝馬町の獄舎に入った。この牢には、吉田松陰をはじめ多くの志士達も捕らえられていた。

厳しい尋問を受け続けたが、やっと疑いが晴れ、刑が確定したのは10月27日であった。幕府は、止幾に「中追放」を命じ、常陸の国への出入りを禁止したので、小石川や下野国茂木の知人宅に身を寄せ、12月6日密かに実家に戻り、9ケ月ぶりに老母と対面した。
翌年、1860年3月3日、大老井伊直弼は激昂した水戸浪士等の襲撃を受けて暗殺された。(桜田門外の変)
幕府の威信もすっかり衰え、止幾の追放もいつしか緩やかになった。