黒澤止幾(とき) 日本初の女性教師

黒澤止幾とは?

止幾
初めて名前を聞く方もいるかもしれませんので、簡単に紹介をします。
明治5年8月、学制発布後、日本初の小学校女性教師になったというのが、最も有名です。この翌年には、徴兵令が公布されました。

止幾の教育は、学問以外に、人間として生きていく上で必要な道徳を教えました。

それ以外に、安政の大獄で、水戸藩主徳川斉昭が罰せられた際に、無実潔白を証明するため京都の朝廷へ女1人で乗り込んだ人物でもあります。

す・ご・い 人なのです。
でも、その生涯は、波乱万丈でした。その生涯を紹介します。

現在でも、江戸末期に建てられた生家が茨城県東茨城郡城里町錫高野にあります。その当時の寺子屋風景がそのまま残っています。
生家
寺子屋

2009年までは、止幾6代目の子孫で当主の黒沢清一氏が1人でこの家を守っていましたが、同年夏他界し、存続が危ぶまれています。

2009年末より、黒澤とき生家保存の為様々な動きがありました。
映画化の話も有りますが、未だ先行き不透明です。

2010年1月4日現在、黒澤とき生家は現存しています。
今のうちに見学しておいた方がいいですよ!


posted by TOKI at 08:25 | Comment(4) | TrackBack(0) | はじめに

生い立ち

黒澤止幾
名は、「とき」「登幾」「登幾子」「止幾」「止幾子」「時子」「と起子」など、さまざまな表記がある。別名、「李恭(りきょう)」。

文化3年(1806年)、常陸国水戸藩領茨城郡高野村(現在の、茨城県東茨城郡城里町錫高野)に、父将吉、母総子の長女として誕生した。
止幾の家は、代々宝寿院という修験道場(山を神として敬う古来日本の山岳信仰と神道、仏教、道教、陰陽道などが習合して確立した日本独特の宗教の道場)を運営し、その傍らで、寺子屋を開いていた。

父将吉は、修験者(山伏)で、水戸藩領の久慈郡小島村(現在の茨城県常陸太田市小島)の鴨志田家から婿養子に入ったが、止幾が2歳のとき離縁となり、黒澤家を去っていった。そのため、止幾は母総子と祖父吉荘に育てられることになる。
特に祖父吉荘から『大学』『実語経』『今川』などの教えを受けていた。

 ところで、黒澤家の家系は、藤原氏の流れを組む、二階堂遠江守為憲の11代の後胤、下総守頼綱の4代の孫、下総国相馬の城主黒沢玄蕃掾頼定の後裔である。藤原氏を勤王の家系としてとらえ、止幾自信が、その藤原氏の流れを引いていることを強く意識し、雪冤運動(徳川斉昭の無実を晴らす運動)を行う契機の一つになっていることが、後に朝廷に献上した長歌の中にうかがい知れる。

場所
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地域性

止幾の生涯の殆どを過ごした錫高野村の地域性について話をしよう。
現在の錫高野は、城里町の西方の山間部に位置し、かつては錫鉱業で栄えた歴史がある。
 錫高野村における錫鉱業の始まりは、止幾の生きた時代を200年もさかのぼる。発見者は、明の誂寛なる人物で、彼が村民に採掘や精錬の方法を伝授したとされる。
佐竹時代には、郡代人見主膳なる人物が錫役を務め、錫の採掘が盛んに行われた。この時、山神祠が創立され、山内安全・鉱業繁栄を祈って大旗が立てられ祭事が行われた。
 更に、水戸藩初代藩主徳川頼房の時代にも、錫山奉行が置かれ、百姓らの農閑余業として採掘・精錬が行われ、村内は大いに栄えた。
 二代藩主光圀の時代には、修験の大龍院大越慶山が別当職を申し付けられ、以後代々その祈願に携わってきた。この大龍院大越慶山は、後に宝寿院と改められる。つまり黒澤家の祖先である。
そして9代藩主斉昭の時代には、庄屋太兵衛ほか村役人の者に、錫役兼務が命じられ、農閑余業として採掘が益々盛んとなった。
 天保5年には、斉昭が自ら視察に訪れ、太古より錫の産地あることを以て、それまで高野村と呼ばれていた村に錫の字をつけ、錫高野村と称するように命じた。斉昭が自ら視察に訪れるほど、錫高野の地を大砲や小銃などの武器製造の地として重要視していたと考えられる。
 このように、幕末の錫高野は斉昭とも関係が深く、錫鉱業で栄えていた。その錫鉱業に黒澤家も「錫高野山神祠別当」という形で関わっていた。
前述した、天保5年の斉昭視察の時に止幾は、崇敬の念が形成されたとも考えられる。
また、黒澤家の修験道場にも、各地の修験者が出入りしていたと見られ、更に錫高野が水戸城から離れた農村部であるが故に、多くの志士らしき人物が立ち寄り、逗留していたことが、史料からわかる。
このように城下から離れていることが、かえって志士達の潜伏に適しており、隠れ家的地域として機能していたと考えられる。
posted by TOKI at 15:23 | Comment(0) | TrackBack(0) | 生い立ち

結婚そして夫との死別

止幾は、文政7年(1824年)19歳の春に、父の実家である水戸藩領久慈郡小島村の鴨志田彦蔵将時に嫁いだ。止幾は、1人娘で生家を継承すべきであったが、父の実家に嫁ぎ、その子に生家を継がせる約束で嫁いだといわれている。

文政10年(1827年)に長女久子が、天保元年(1830年)に次女照子が誕生した。

しかし、夫彦蔵は放蕩者であった。いさめても聞く耳をもたない夫の非行を改めさせようと、ひたすら神に祈りつつ、苦渋と忍従に明け暮れた生活を送っていた。
この小島時代の止幾は専ら農業に励み、紅花の栽培などに従事していた。
そうして小島における8年間、止幾は、ひたすら貞節を尽くし家のため、夫のため、子供のために苦労を重ねた。しかし、その甲斐も無く、天保2年(1831年)に夫が死亡したので、やむを得ず、翌天保3年の秋、2人の子供を連れて錫高野の生家に戻った。
posted by TOKI at 22:18 | Comment(0) | TrackBack(0) | 結婚と死別

行商生活と地方文化人との交流

天保3年に2人の娘と錫高野の実家に戻った。この時、長女の久子が、祖父の生家である鴨志田家に嫁ぐ約束であったが、、その相手である鴨志田定衛門次男辰助が19歳で病死してしまった為、鴨志田家と黒澤家の婚戚関係は断絶することになる。

一方、黒澤家においては、祖父吉荘は既に亡く、止幾は、母総子と二人の娘たちの家計を助けるため、櫛(くし)や簪(かんざし)を江戸で仕入れ、行商によって各地を巡っていた。その行商範囲は、上州草津の湯元まで行っていることがわかっている。
女性1人で、大変危険な行商の旅であったと察するが、止幾はその間、地方の文化人と交流を深め、俳諧・狂歌・漢詩・和歌などを学んできた。更に行商の先々で各地の志士達と交流をもっていたとも推察できる。

天保10年(1839年)には、祖父吉荘死後空席となっており、那珂郡小野の南窓院が兼務していた宝寿院の院務を司るため、母総子の婿として、その南窓院から助信法印を迎える。止幾は、この義父となった助信法印にも、和漢の書を学んだ。
 この助信法印は、詩歌・俳諧のみならず、浄瑠璃までも作る才能の持ち主であったという。また、天保14年には、水戸藩藩政改革における寺院破却に際し、率先して賛同した人物でもあった。、しかし彼は安政元年(1854年)病気のため実家の南窓院に戻り、翌年に亡くなった。止幾は、この義父助信法印に、文化的にも思想的にも大きな影響を受けたと思われる。

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徳川斉昭の雪冤運動

※雪冤とは、無実の罪をすすぎ、潔白であることを明らかにすること。

安政5年(1858年)4月、彦根藩主井伊直弼が幕府大老に命ぜられ、停滞した幕政を一挙に挽回しようとして、天皇の許可を待たずに日米修好通商条約に調印した。これを知った徳川斉昭等は、不時登城し井伊直弼に対し無断調印したことを激しく面責した。
このため幕府は斉昭等に対し不時登城の罪により厳しい罰則を科した。「重謹慎」を命ぜられた斉昭のため、水戸藩士民は大挙して江戸に上り、斉昭の雪冤運動を行い水戸藩内は騒然となった。幕府は勤皇派に対する圧力を強め、多くの志士達が捕らえられ投獄さて、あるいは斬罪となり、その数は百名に達した。
これが「安政の大獄」と呼ばれる幕府の圧政である。

この風聞が次第に伝わり、勤王の志厚い止幾は、黙って見ていることが出来ず、烈公の無実を京都の朝廷に訴えようと決意した。
安政6年2月22日、止幾は母の許しを得て女性の身でただ一人故郷を後に、一路京都へと旅立ったのである。止幾が54歳のときだった。

止幾は東海道を行く考えであったが、通行人の激しい東海道は途中、取締りが非常に厳重であったので、笠間から下館を通り桐生を過ぎ、草津に到着した。3月2日のことだった。
それから、信州路より長野へ入り、松本、塩尻を経て関ヶ原大津から3月25日に京都へ入った。故郷を出て24日目であった。
止幾は、水戸の旅人が宿泊するという京都の扇屋に宿をとり、朝廷に差し出す献上の長歌の清書をして、座田右兵衛維貞に献上の長歌を託した。

京都における幕府の警戒は一層厳重で、関東から女の密使が京に潜入したという噂はたちまち京都に広まった。

大阪に向かった止幾は、そこで役人に捕らえられ、再び京都へ護送され厳しい取調べを受けた。2ケ月近い入牢の末、5月15日、政治犯として重罪人扱いとなった止幾は、唐丸籠に乗せられ江戸へと護送された。途中の宿場宿場では、女性志士を見ようとする見物者が大勢詰め掛けた。そして、江戸伝馬町の獄舎に入った。この牢には、吉田松陰をはじめ多くの志士達も捕らえられていた。

京都への路


厳しい尋問を受け続けたが、やっと疑いが晴れ、刑が確定したのは10月27日であった。幕府は、止幾に「中追放」を命じ、常陸の国への出入りを禁止したので、小石川や下野国茂木の知人宅に身を寄せ、12月6日密かに実家に戻り、9ケ月ぶりに老母と対面した。

翌年、1860年3月3日、大老井伊直弼は激昂した水戸浪士等の襲撃を受けて暗殺された。(桜田門外の変)
幕府の威信もすっかり衰え、止幾の追放もいつしか緩やかになった。

黒澤止幾 献上の長歌

千早振る 神代の昔 神々の しつめ玉ひし 秋津島 実にも貴き
日の本の 清き光は 古も 今も千歳の 末までも かはらぬ君が
御代なるを かくとはいざや しら波の 寄せ来る如に 異国の
ことうき舟の えみしらが しゆる願ひを つとつとに 受け引き
国の あやまちは 井伊といふ士の心から 御国のおもの 食みながら
おさおさしくも 思ほへず あやなくまとふ ぬば玉の 心のやみの
くらかりし 黒き間部を 語らひて 功あれど 咎のなき かしこき君を
おしこめて 黄金の色を 山吹の 花散る如に まきちらし 重き雲上を
恐れなき たくみんのほどぞ あさましき あさきたくみも 自づから
浮世の人の 言の葉に かかる悪事を 伝え聞く 身は下ながら 天照らす
神の御末を くみてしる 功ありし 藤原の 流れの末の 我なれば
聞すてならず 年たけて 五ツの四ツに なりぬれど 七十路三ツの
母そばの 老いの齢を 見まほしと 教への道を 業として 細き煙の
たち居よく 朝な夕なに 仕へしも ことを委曲に 語らひて しばしのいとま
こひければ ともに心を そへられて 御国のために 時を得ば 早とく行けと
老楽の 言葉もすぐに 力くさ 露をふくみし あさぼらけ 目も立ちいずる
衣手の 常陸を出でて 敷島の 道ある御代を したひつつ 杖を力の
旅のそら たどるも君が 御世のため 思ひつつけし 老いが身の
矢たけ心は 春の野を 行くも帰るも 梓弓 はるけき道を 細蟹の
糸もたゆまず 引きはへて 雲の上まで かけ橋を 渡る思ひは 天さかる
ひなに生まれし ちりの身の ちりつもりてふ 山の井の 深き心の
みなもとは 流れて清き 丸水の 中にすみぬる 魚心 つたなき身をも
忘れつつ 御国のためと 朝夕に 千々に心は くだけとも ただひとすぢに
行く水の せみの小川に みそぎして はるばるきぬる 旅衣 あかつきながら
鶯の 発音のけふの ことぶきや 野末に匂う 梅が香を 天つ空まで
伝へあげ 恐れ多くも 久方の 雲上の庭に ぬかづきて かしこみかしこみ
つつしみて 申す言の葉 奉るなり

反歌

よろず代を照らす光の十寸鏡 さやかにうつす財が真心

あつさ弓はるけき道を細蟹の 糸もたゆまず雲の上まで

きよみかたきよらにすめる有明の 月にくらへむ日本こころを

衣手のひたちを出て敷島の みちある御代をたずねてそとふ

安政6年未3月
  黒澤 李恭   頓首再拝

献上長歌・反歌の現代約

神代の昔、神々が鎮正なさった、まことにけだかいこの日本の国は、昔も今も更に千年の後の世までも、変えることのない君が御代であるはずなのに、こんな有様では、まことにわけのわからないご時世だ。
白波が寄せ来るように外国のいやらしい舟がやって来て、彼等が強いる無理な要求を早速引き受けたあのあやまちは、井伊直弼と言う士が日本の俸禄を喰んでいるくせに立派なことだとはとても思われない。
何の分別も無い間部詮勝に命令して、手柄こそあれ何の罪科もない我が主君を幽閉し、多くのお金で買収して恐れ多くも皇室の方々を言葉巧みに引きつけたことはあさましいことだ。知恵の浅い井伊掃部の頭のこんなからくりは、しぜんと世間の人々の言葉に上がり、こんな悪事を云え聞いてみれば、私は下賎の身であっても、神代の神のご子孫である勲功の高かった藤原氏の末流の私であるから、これを聞き捨てるわけにはいかない。
私は年をとって54歳にもなったので、73になる老母のそばで最後のお仕えをするつもりで、私塾を開きながら暮らしてきましたが、この事情を詳しくお話して少しの間のお暇をお願いしましたところ、母親も私に向かって同感なさって、お国のためによい機会だからと老母は率直に私に力をつけて下さいました。そこで露深い早朝の日の出とともに常陸の国を発って、日本の道理が立派に行われる御代にしたい一心で、杖をたよりの旅に出たのもひとえに主君を思う一念からです。
老のわが身ですが止むにやまれぬ心は遠くまで蜘蛛の糸がぴんと張っているように、宮中まで続いている架け橋を渡る私の心です。それは、田舎者の下賎な私ですが、山の井の清水のように清らかな流れの中にすむ魚の心と同じです。いやしい自分をもかえりみず、お国のためにの一心で、どうしたものかと案じましたが、もはやこの上はと先づ賀茂神社へお参りしました。まだ明け方ですが、鶯の初音を聞いたお目出たい今日でした。そしてこの私の心の中を宮中まで申し上げるため、恐れ多いことですが、お宮の前にひざまづいて、謹んで私の言葉を申し上げ奉る次第です。

反歌(はんかとは、短歌の形をとるのが普通で、前文で言い足りなかった点を付け加えたもの)

・いつ迄も照らして変わりのないこの一尺ほどの鏡に、今こそはっきりと私の真心を写しましょう。

・はるばる旅を続けてきました、さあ蜘蛛の糸のぴんと張る宮中まで張り渡りましょう。

・きよらかに澄み渡っている今朝の月は、これこそ我が日本の清い心と同じでしょう。

・ふるさとを遠く旅して来ました。さあ日本の道理の行われている御代をはるばるたずねてみましょう。

寺子屋の師匠となる

安政元年8月5日、故郷へ戻って、祖父伝来の寺子屋を継いで、私塾の経営にあたることになった。
止幾が初めて門人をとって教えたのは、嘉永4年(1851年)の夏、行商生活の合間に草津の菊屋旅館に滞在した際、娘の主馬女の手習いの師匠として読み書きを教えたことに始まる。この草津には半年ほど滞在している。
更に嘉永5年2月には、錫高野村の近隣えある塩子村(現在の城里町塩子)にて、土地の有志から懇願されて子弟の教育に従事することになる。ここでは、教場として、富田・富岡・阿久津・館氏などの邸宅があてられた。この塩子村には、安政元年(1854年)5月まで滞在し、再び草津へ湯治に向かい、この間また菊屋権太郎の世話で、湯本平兵衛なる人物の娘須久女と次男次郎に読み書きを教えた。ここには、8月の始めまで3ケ月間滞在し、その後は錫高野に戻り、寺子屋を継承する。

こうして止幾は行商生活に終止符を打ち、錫高野の実家で寺子屋の師匠としての人生を踏み出すのである。当時、先師(義父助信)より継承した門人は16名であった。
それから安政6年2月末に上京するまでには、81人に達していた。
京都より帰郷後、萬延元年11月より、寺子屋を再興して、明治5年4月に至る12年間に約200人余り、それから更に、明治の学制改革以後にもまた、教え子を請うものが少なくなかった。

多年、心に掛かっていても、思うに任せぬ老母への孝養も、今は日夜、老母の膝元に住んで、心の限りを尽くして奉仕することが出来ると同時に、祖先伝来の事業を継承して私塾を経営することが出来る時節に遭遇したのである。貧しいけれども清く、寂しいけれども正しい教育者としての一路を歩んでいたのである。
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初の小学校女性教諭誕生

明治2年(1869年)3月に府県施政順序の中に小学校設置の1ケ条が設けられ、翌3年2月、大中小学規則が定められた。更に明治5年8月「学制」が発布され、小学校が設置されることになる。
小学校の設立方式には各府県によって次の3つの基本的な類型があったとされる。
 第1の型は、家塾を基礎にしないもの
 第2の型は、家塾を基礎にしたもの
 第3の型は、なかば家塾を基礎としたもの
この中で茨城県は、第2の型、つまり従来の寺子屋をそのまま小学校とした典型的な例である。すなわち、従来の家塾にやや修正をを加えて、そのまま小学校tpし、だんだん教則を改正して、学制による小学校の体裁にもっていこうとする型である。

更に学制では、「小学教員ハ男女ヲ論セス年齢20歳以上ニシテ師範学校免許状或ハ中学免許状ヲ得シモノニ非サレバ其任ニ当ルヲ許サス」とされているが、これはただの将来を目的にしたものに過ぎず、当面どういう人材を教育に当てるかは少しも指示していない。
そこで当面教員にあてられるべき人材源としては、まず、藩学や郷学の後身である県学の教師群、家禄で生きている士族、神官や僧侶、農商ながら学問の素養のある者、そして何と言っても、従来の家塾や寺子屋の師匠群があった。

各府県とも、とりあえず相当程度、家塾の教師を教員に当てたが、特に家塾保護の方式を取った茨城県では、家塾への信頼感が背景にあった。
このような中で、明治6年5月に、止幾も自宅を教場として小学校教育を始めた。この時、止幾は68歳であった。
この教場は、錫高野地区の、学制に基づく最初の小学校で、止幾自身も茨城県における最初の女性教師とされている。止幾は、1年間主に漢学を教えたと言われている。
そして、明治7年5月に新校舎が設立されると同時に、臨時的な採用であり、高齢でもあったため教職を辞した。
しかし、その後も教えを請う者が少なくなかった為、再び実家の寺子屋の経営に当たり、明治23年85歳の高齢で亡くなるまで、近隣の青少年を教え続けた。
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